3-3-3.鉄道事故とホロスコープの関係性

多数の死者数を出した鉄道事故発生時のホロスコープを確認します。

 

1.JR福知山線 脱線転覆事故

 

2005年4月25日9時18分、兵庫県尼崎市のJR西日本福知山線塚口駅・尼崎駅間の曲線カーブで列車の遅延回復のため速度超過運転などが原因となり、快速列車(7両編成)が脱線・転覆。運転士1名と乗客106名が死亡、562名が負傷した。死者数はJR発足以降最悪となった。

 

JR福知山線脱線転覆事故ホロスコープ

 

2.営団日比谷線中目黒駅構内 列車脱線事故

 

2000年3月8日9時01分・東京都目黒区の帝都高速度交通営団(東京メトロ)日比谷線付近で、恵比寿から中目黒駅に向かっていた地下鉄列車が中目黒駅手前の急カーブで脱線。対向列車の側面をえぐる形で衝突。死者5名・負傷者64名を出した。中目黒駅付近では、1992年、1985年にも事故が発生していた。

 

営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線事故ホロスコープ

 

3.東武伊勢崎線竹ノ塚駅 踏切死傷事故

 

2005年3月15日16時50分・東京都足立区の東武鉄道伊勢崎線竹ノ塚駅南側の伊勢崎線第37号踏切で、女性4名が浅草行き上り準急列車にはねられ、2名が死亡し2名が負傷した。当時、この踏切は手動式(第1種乙踏切)で、東武鉄道の係員が操作していた。事故発生前の列車が通過後に列車の接近を知らせる警報ランプが点灯したが、次の準急列車通過までに余裕があると踏切警手が思い込み、遮断機のロックを解除して2-3m上げてしまうという操作が原因だった。

 

 

4.羽越線特急 脱線転覆事故

 

2005年12月25日19時14分頃・山形県東田川郡庄内町のJR東日本羽越本線北余目駅-砂越駅間の第2最上川橋梁で、秋田発新潟行きの上り特急「いなほ14号」(6両編成)が橋梁通過直後に全車両が脱線し、先頭車両は沿線にある家畜共同団地内の養豚場に隣接する堆肥小屋に激突・大破した。この事故により先頭車両に乗っていた5名が死亡、33名が重軽傷を負った。「突風」が原因とされている。その後突風対策として余目駅にドップラーレーダーが設置され、線路沿いには防風フェンスが設置された。

 

羽越線特急脱線転覆事故ホロスコープ

 

5.国鉄桜木町駅 電車火災事故(桜木町事故)

 

1951年4月24日13時45分、神奈川県横浜市の桜木町駅構内で京浜線の電車(5両編成)が、碍子交換工事中に誤って切断され、垂れ下がっていた架線に接触、電流の短絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106名、重傷者92名を出す大事故となった。その当時、京浜線電車に使用していた63系電車の戦時設計に起因する粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、国電の安全対策強化の契機となった。

 

 

6.常磐線三河島駅 列車多重衝突事故

 

1962年5月3日21時37分、東京都荒川区の国鉄常磐線三河島駅構内で貨物線から下り本線に合流進入しようとした田端操車場発水戸行きの下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、停止信号を冒進して安全側線に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行して来た上野発取手行きの下り電車と衝突し、脱線した下り電車は上り本線を支障した。約6分後、さらにその現場に上野行きの上り電車が高速で突入。上り電車は線路上に避難していた乗客多数を巻き込みながら下り電車に衝突、双方の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両は築堤下へ転落して民家に突っ込み、死者160名を出す大事故になった。 下り貨物列車と下り電車が衝突した時点での人的被害は小規模だったが、下り電車の乗客が上り線路上へ出てしまったことと、約6分の暇が有りながら事故現場へ接近する上り列車を非常停止させるための防護処置が行われなかったことが更なる事故を招来し、人的被害を大きくしてしまった。この事故が契機となり、自動列車停止装置(ATS)や列車無線の設置を推進することになった。

 

常磐線三河島駅列車多重衝突事故ホロスコープ

 

7.東海道本線 鶴見列車多重衝突事故

 

1963年11月9日21時40分、神奈川県横浜市の 東海道本線鶴見-新子安間の貨物線を走行中の下り貨物列車が脱線、そこに横須賀線の上下旅客列車がほぼ同時に進入して三重衝突事故が発生。合わせて死者161名、重軽傷者120名という大事故になった。 調査の結果、競合脱線が原因だとされた。

 

 

8.信楽高原鐵道 列車正面衝突事故

 

1991年5月14日 10時35分ごろ、滋賀県の信楽高原鐵道信楽線の小野谷信号場 - 紫香楽宮跡間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車(4両編成)と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(3両編成)が正面衝突。上り普通列車の乗務員と添乗していた職員の5名、乗客37名の計42名が死亡、614名が重軽傷を負った。 信楽高原鐵道が閉塞方式の概念を軽視し、信楽駅の出発信号機が停止信号現示のまま列車を出発させたことと、信楽高原鐵道とJR西日本のそれぞれが信号装置の改造を双方に無認可で行ったことが原因とされた。なお、信楽線にはATSが設置されていた。

 

 

9.国鉄八高線 脱線転覆事故

 

1947年2月25日7時50分・埼玉県日高市の国鉄八高線 東飯能~高麗川駅間で八王子発高崎行き、蒸気機関車(C57)に連結された列車が定員の3倍もの乗客を乗せて東飯能駅を出発し、鹿山峠を越え高麗川駅南側約1キロの急坂カーブにさしかかった時、6両編成のうち2、3両目の連結器が外れ後部の客車4両が脱線、うち後方3両が高さ5メートル下の桑畑に転落した。死者は184人(188人との記述も)、重軽傷者は570人。速度制限が時速55キロ以下とされていたが、終戦直後の食糧難の時代、超満員の買い出し客を乗せて東飯能駅を出発した列車は、出発時刻に遅れが生じたため、速度を超えてカーブに進入、急ブレーキをかけたため、連結器が外れて客車が脱線したと言われている。

 

 

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